一人のフランス人比丘が、私たちが「仏教」と呼んでいるものの傑出した意味を、他では見られないほど現実的で実際に即した切り口で語ってくれます。
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仏教は哲学ではありません。ですからこれが哲学の核心ですよとは言い難いのです。では仏教の教えの核心といえば何でしょうか?それはとてもシンプルなものだとブッダご自身が語っておられます。ある時ある人がブッダのところに来て尋ねました。「結局のところ、あなたの教えとは何ですか?」ブッダは答えられました。「わたしの教えとは、苦と、苦の終焉です」これがブッダの教えの核心です。それは苦しみと苦しみの終焉の教えなのです。
苦の終焉とは、苦を生み出すあり方と反対のあり方です。そして苦を生み出すものは無知です。ですから苦の終焉とは、すなわち無知をなくすことなのです。
誰かがその質問をしたとき、ブッダは答えられました。「無知の原因になるものとは、意識です」その人はまた尋ねました。「では意識の原因になるものは何でしょうか?」ブッダは答えられました。「意識の原因になるものとは無知です」このほんの短いフレーズは、きちんと説明しようとすれば3時間かかるでしょう。
しかしあまりにも専門的な考察に入るのは避けて一言で言うならば、私達がここにいるということ、それが無知の原因なのです。
その通りです。根本的には、その原因は無知なのです。無知は主としてブッダが永遠性の要因と呼ばれる三つの態度の中に見出されます。そして、それらが世の中を絶え間なく回転させているのです。
ひとたびこの三つを滅したならば---つまり無知を滅したならば-あらゆる苦痛、あらゆる問題、あらゆる困難をなくすことができるのです。
ブッダの教えは宗教でも哲学でも体系でもありません。それはまさに物事のあるがままを示す教えなのです。もちろんこれとは対照的に、ミャンマーやその他の国々にはありとあらゆる仏像や建造物があって非常に宗教的な面が見られるのは確かです。しかし、このような宗教的な側面、祈祷や礼拝を必要としているのは、人々の方なのです。
ブッダの説法を本当に守るならば、本来、私たちはこれらの仏像や建造物とは無縁のものです。ブッダは発見者です。ブッダはいわば何かを発見した科学者であり、そこから宗教をつくられたのでも儀式をつくられたのでもありません。ブッダは新しい法則を発見され、その法則を説き示されました。ブッダの弟子はこの法を聞き、これを学びます。そしてひとたびよくこの教えを習得したならば、今度は弟子たちがそれを教えることができるようになるのです。法輪はすでに見出されたのですから、敢えて再び作り出す必要はありません。大地は開拓されたのですから、何であれ、敢えて再発見する必要はないのです。こうして私達はブッダの後につき従って「声聞」(仏弟子のこと)となり、ブッダの教えを聞きます。私達はブッダの説かれる自然の法則を理解しようと努め、ひとたびそれを理解したならば、今度は私達がその教えを伝えることができるのです。
ですから、祈りも儀式も神のご加護を祈ることもありません。自分自身以外の誰をも当てにはしないのです。ただ自分自身に対してなすべき務めがあるだけです。それは、とりわけ、理解するという務めです。なぜなら、実のところ私達は、無知な大きな子供にすぎないからです。そもそもブッダご自身がこうおっしゃいました。「私の教えは幼い子供のためのものではない」
ブッダは苦と、苦の原因と、苦の滅尽と、苦を滅するための方法を説き示されました。しかし、そうはいっても実際問題としてこんな問いが湧き上がるでしょう。「その無知を克服し、惨めさの原因を克服するためには、具体的に何をしたらいいの?」と。
ともかく、ちょっとしたなすべき務めがあります。それは、ひとりでに出来てしまった、というようなことは起こりません。ブッダは「偉大な賢者」の恵みを期待しても無駄であるとおっしゃっています。「私自身10年もの間試したがうまくいかなかった!」と。そしてブッダは他の方法を教えて下さいました。それはもっと現実に即した実践的な方法で、自分自身に対して行う務めなのです。ブッダも「務め」という言葉を使われています。これには三段階があります。
第一段階として、基本的な道徳に基づいた生活を習慣づけ、道徳的な生き方をすることです。道徳的な生き方といっても、「比丘になる」ということとは全く別のことです。比丘は徳という分野ではプロとみなされますが、残念ながら必ずしもいつもそうとはいえないのが実情です。実は、道徳的な態度とは攻撃的でないということなのです。殺さない、暴力を振るわない、盗まない、不貞をしない、嘘をつかない、酔うものを飲まないということです。これがブッダの教えの基本の柱です。
第二段階では、この道徳的な生き方に基づき、次の務めを行うことができます。それは集中すること、瞑想することです。瞑想を実践すると集中力と落ち着きを養うことができます。制御されていない全く浮ついた心では大したことは成し遂げられません。
道徳と瞑想という二つの土台を確立したら、第三段階ではブッダが呼ばれるところの「知性」「知恵」を育てる段階へ移ります。そしてこれが最高の段階です。それは悟りと解脱へと一直線に導く最終的な道なのです。
それは瞑想でも修練でもなく、ましてや祈りや儀式でもありません。それは現実を直接に観ること、ただその一点なのです。しかし、言うのは易しく行うのは難しいことです。
教えがどんなものであるかということと、人々がその教えから何を作りだすかということは、別のことです。仏像や建造物を目にしたとき、人は「これまで道徳や知恵について説明されてきたが、これらの仏像や建造物は何のためにあるのだろう?」とつぶやくでしょう。これら仏像や建造物に何の意味があるかといえば、それは単に、人間とはこうしたものを作らずにいられない、ということを示しているにすぎません。
教えに関心をもち、五戒を守り、道徳的な生活を送り、瞑想を実行する人々、そういう人々は常にいるものです。しかし、ブッダがおっしゃるように、人間にはとても強い信仰心があるのです。そのため、ありとあらゆるものを建造せずにはいられません。
そもそも技術的と言っていいほど実にシンプルで純粋な教えを知っていてすら、私たちにはこうなることが避けられませんでした。すなわち、建造物を建てたり、儀式を行ったり、膨大な読経をしたりといった宗教的な側面についには行ってしまうのです。
旅行者のグループが時々、仏像の前で読経する比丘を見かけることがあります。旅行者たちはこうつぶやくでしょう。「これは宗教だ、比丘たちは神に祈っている、仏のご加護を祈っている。信仰深いことだ!」もし通訳がそこにいたら、比丘たちがブッダの母国なまり(パーリ語)でブッダの言葉を抜粋して復唱しているだけであることがわかるでしょう。唱えているその内容は驚きであり、愉快なくらいです。例えばこんな具合です。「この体は32の部分でできています。目、耳、毛、胆嚢、肝臓、腎臓、尿、大便、血...」。そしてこんなフレーズで終わります。「この体は不快なものであり、この体は腐敗した、ことさらに不快な物が詰まった皮膚の袋です」。このような言葉を規則的に唱える比丘と沙彌の中には10歳の少年も混ざっていたりします。
あくまでも事物をありのままに示すこと、いつもこの考え方にたち戻るのです。にもかかわらず、人は額縁をかけ、飾り立てずにはいられません。確かに言葉通りにすれば、ブッダの教えはあまり”ワクワクするもの”とはいえないでしょう。なぜなら、それは世の中のありのままを科学的、技術的に示したものだからです。だから美的な要素がとても少ないのは確かで、それゆえに、人々は少しは飾りたてることをせずにはいられなかったのです。
事はきちんと区別する必要があります。壮大で、人々が好むもの、建造物やブッダの肖像や仏像などにあまりにもとらわれ過ぎることは避けなければなりません。どのみち、ブッダの教えの本質にたどり着くためには、いずれはこれらを全部捨てなければならないのです。どんなことにも言えますが、大事なのは本質なのです。
例えば素晴らしい建造物や美しい建築物のある大きな大学を例にとりましょう。それは美しく心地良いものです。しかし、大学に入学したら、一つの明確なテーマを勉強するという目的を見失いはしません。テーマの研究に全力投球しているときには、外の環境や建物や噴水や公園の美しさなど意に介しません。
ブッダの教えについても同じことが言えます。しかるべきときには、そういったものをすべて忘れなければなりません。
太陽が今沈んでいったのを見て、ある思いが浮かびました。それは衰退ということです。日が暮れ夜になる...。ブッダはご自分の教えの衰退ということについても話されています。ブッダの教えも、ある日この世から消えるだろうと。なぜならそれは避けられないことだからです。すべて生じたものは必然的に消滅しなければならないのです。過去のすべての文明もついには消え去りました。興味深いのは、ブッダの教えの衰退の原因は、戦争でもなく飢饉でもなく宗教でもなく政治的なイデオロギーでもなく、比丘が原因であるとブッダがおっしゃっていることです!
ブッダが、教えを護るために信頼を寄せられた者達が、時が流れるにつれてその教えを壊す原因となる。一体なぜでしょうか?それは、ブッダの時代からすでにブッダの教えの中に自分の個人的な考えを忍び込ませる比丘達がいたからであり、この先もますます増えていくであろうからです。彼らは少しずつ自分の個人的な考えや個人的な教理を取り入れ、混ぜ合わせ、あれやこれやの哲学の中から様々な要素を掘り出して「結局すべては一つである」とか「どこかでブッダもそうおっしゃった」と言うのです。
そして人々は、その中にダイアモンドがありながらも「ダイアモンドと石ころを見分けること」がもはやできなくなってしまった混ざり物を見出すことになるでしょう。比丘達はこのようにブッダの教えに合致しない意見や見解を忍び込ませてしまうのです。
ブッダの教えとは何でしょうか?この質問には何千もの答え方があります。この質問に答えるために、ブッダの逸話をお話しましょう。ある日、ブッダは比丘達と一緒に旅をされていました。そして一人の比丘が説法をしているところに通りかかりました。彼は大変巧みに説法をしていました。ブッダは比丘たちにお尋ねになりました。「比丘たちよ、この比丘の見事な説法が聞こえますか」「はい、尊敬するブッダ、私達は彼の言うことが聞こえます」。ブッダは続けてとても重要なことをお話しなさいました。「比丘たちよ、比丘が教えを説くとき、それは「わたしの」教え、すなわちブッダの教えではない。比丘たちよ、比丘が教えを説くとき、それは「彼の」教え、すなわちその比丘個人の教えではない。比丘たちよ、比丘が教えを説くとき、それは物事のありのままの現実を説いているのに他ならないのである」。
この言葉はブッダが生前あちこちで残された短い名言の一つです。文字通り、ブッダの教えは「現実の教え」(ダンマという言葉には「あらゆるもの、現象」の意味がある)であります。そこにさらに加えるべきことは何もなく、またもちろん、取り除くべきことも何もありません。不幸にもこの教えが失われていくのは、比丘(または人々)の中に、この教えに何かを加えたり、この教えから何かを取り除いたりする者がいるからなのです。やがては、中身のない貝殻---儀式や読経や大学での難しい教理研究しか残らないということになってしまうでしょう。第一、今現在、すでにそうなっているのです。
しかし今日でも、特にミャンマーには、教えの本質をしっかり守っている比丘達がいます。彼らは教えを実際に体験し、あるいは教えを実践する比丘たちです。しかしそんな人たちも少しずつ消えていくことでしょう。ブッダの教えは、消滅への道をたどりつつある類のものです。